昨年の3月に大学を卒業した学生で就職出来ずに浪人生活を送る人が3万人近くに達したとの報道があった。そして、彼らの全てが就職できるように国が有効な支援策を整えるべきだとメデイアは報じていたが、筆者に言わせれば、何を甘っちよろい事を言っておるのかと馬鹿馬鹿しい思いで見ていた。就職何てものは、学生が自らの力で勝ち取るものであり、就職できない事を社会や行政のせいにする風潮こそが問題である。事がうまく行かなくなると、自助努力を棚に上げ何でもかんでも佐渡市や新潟県のせいにしたがる佐渡島民と同じである。就職できない落ちこぼれ学生を国家予算で救済する必要などは更々ないと思う。就職したければ、企業が採用したくなるだけのスキルを身につけるべきであるし、将来性を見い出せるだけのタレント性を示すべきであろう。組織が欲しがる人材は、画一的な教育を受けた者よりも、自由柔軟な発想が出来る言わば型破りな独創的な思考の持ち主である。時にそのような人材は、型にはまった官庁のような組織では受け入れられないが、民間の企業組織に於いては珍重される。採用担当者の目には、安全運転者よりも博打人生を歩む人材の方が魅力的に映る。だが、そんな一発勝負屋は賞味期限があるので、役立たずとなればすぐに捨てられる。捨てられてこそ尚浮かぶ瀬のあるのが人生ゆえ、たとえお払い箱になったとしても、才能さえあれば彼らはどこかで誰かに拾われる。「捨てる神あれば拾う神あり」だからだ。そうやりながら、人生をステップアップしていくのが真の人生勝者である。
筆者が受験生の頃は、入学試験開始時刻に一秒でも遅れたら、その理由のいかんに関わらず受験は一切認めてもらえなかった。入学試験は文字通り真剣勝負だったし、一発勝負でもあった。ところが今ではどうだ、雪などの天候不良があれば交通機関の遅延証明書さえあれば、別室での受験が認められるし、中には試験開始時刻を遅らせてくれる親切な大学まで出現する始末だ。それもこれも、少子化で受験生が減った事に対する大学側の危機感の現れに他ならない。黙っていても受験生が押し掛けたあの東京大学ですら、受験者を増やそうと、大学案内などのパンフレットを作成して配りまくり、これ宣伝に努めているご時世であり、受験生様様なのである。だから多少学力が低くても入学できる時代になり、世の中には馬鹿な大学生が溢れている。大学全入時代になり、猫も杓子も大学生だから、箸にも棒にもかからない馬鹿ちょん学生が街に溢れ返っている現実を見ると、日本の将来は大丈夫かと思えてくる。筆者は早慶上智を馬鹿にしたが、更にそれ以下の駅伝大学などは泡沫大学でしかないにも関わらず、現代ではそうした大学の偏差値が高くなり、合格しにくくなっていると言うのだから随分と変ったものである。だが、大学側の過保護とも言える甘っちよろい環境下で育った学生に、日本の将来を託すだけの価値があると考える企業がどれほどあろうかと思うのは筆者だけではあるまいに。