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Channel: 佐渡の翼
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日蓮波題目の碑(佐渡市真浦)   投稿者:佐渡の翼

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日蓮が赦免になったのは、文永11年3月8日。日蓮一行は、一谷(いちのさわ)の妙照寺を出発して真野渋寺より梨の木道を通り大木戸越よりこの坂道を下り、松ヶ崎に着いた。そして3月13日に、松ヶ崎から出航した。言い伝えによると、船に乗って少し沖に出たところで「この島に4年間もいたが、自分の願望は空しくなかった。妙法が広まるとき、この島は自分にとり、実に開運の地である」と言ったそうだ。そして、名残りを惜しまれ、朝日に向かって合掌すると静かな海面に「南無妙法蓮華経」の七文字が浮かび現れた。これを「波題目」と言い、その後も信心深い者はこの海上で、その文言を拝むことができると伝えられている。だけどそんな馬鹿な話があるかい。海面に文字を描くなどは手品をもってしても出来ぬ話だ。しかしま、実証科学の終わる所に伝説や文学が始まるのだから、何も目くじらを立てる必要はあるまい。

ところが船が沖合いに出ると春先特有の東風にさえぎられ航行不能となり、止む無く船は引き返し、「真浦」という集落に着いた。江戸時代の天保のころ、この真浦は家数28軒の集落でしかなく、当然真浦には日蓮が泊まる宿などは無かった。仕方なく日蓮はその日は真浦の洞窟で夜露をしのいだ。明治30年の水害で、その洞窟は埋まってしまったが、最近になってその一部が掘り出され見学できるようになっている。「翌3月14日、日蓮は真浦の舟本家に一泊し、15日に真浦から出航した。その際、立子家の老婆が粥をもてなした」と、歴史書には書いてある。ところが、山本修巳著の「かくれた佐渡の史跡」という書物には、「日蓮は3月13日、14日は真浦津に留まった。宿泊した家は永井六郎兵衛宅で、その家には日蓮が書き与えた薄墨の曼荼羅や茅の曼荼羅などがある」との記載がある。一体どちらが本当なのか?諸説紛々である。

そして、15日に出た船も寺泊にはつけず、柏崎に流されて到着したと伝えられている。これには異論はないようだ。

説明看板

波題目碑文

南無妙法蓮華経

日蓮洞窟への案内看板

ここを右に曲がる

路傍で見つけた花

日蓮洞窟の由来

日蓮洞窟

日蓮堂


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